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J.D.サリンジャー Archive
73:『ナイン・ストーリーズ』
- 2007-08-06 (Mon)
- J.D.サリンジャー
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久しぶりに再読。
シーモアは、どうして死んでしまったのだろう。
エロイーズとラモーナが泣くまでの心の変化は、
どんな風だったかしら。
笑い男の、団長のお話と、現実が交わる、
あの、ぞわりとする感じ、どうだったかな。
ライオネルは、どうして泣いていたんだろう。
テディは何に絶望していたんだろう。
深く深く読んで、
台詞を丹念にほどいて、
少しは、前より、近づけたかなと思う。
中でも、テディの言葉はとても興味深かった。
「オレンジの皮が(海に)浮いているのが面白いんじゃない。
オレンジの皮があそこにあるのをぼくが知っているってことが
面白いんだ。
もしもぼくがあれを見なかったら、
ぼくはあれがあそこにあることを知らないわけだ。
そしてもしもあれがあそこにあることを知らなければ、
そもそもオレンジの皮ってものが存在するということさえ
言えなくなるはずだ。」
「死んだら身体から跳び出せばいい、それだけのことだよ。
誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか。
覚えてないからといって、やったことがないことにはならないよ」
「象が子供たちのことを知らないように、
子供たちにも象のことを知らせないでおくね。
草とか、そのほかの物もおんなじさ。
草は緑なんてことさえぼくは教えない。
色は名称にすぎないからね。
つまり、もしも草は緑だと教えると、
子供たちは初めから草をある特定の見方
−教えたそのご当人の見方−で見るようになっちまう」
最近、詩人の書いた本を良く読んでいるからかな。
「ことば」が縛り付けてしまう色々な事に対して、
自分自身がとても敏感になっていて、
そこに、これらの台詞が現れたから、
思わず、うんうんと頷いてしまった。
でも、テディは、詩人について、否定的だった。
「詩人というのはいつも天気を個人的に受け止めるでしょう。
感情のない物にいつも自分の感情を注入する」
そして、「感情」に対しては、
「(感情を)持っているにしても、使った記憶はない」
「感情って何の役に立つのか分からないんだ」
と、やはり否定的。
「言葉」「感情」に対しての否定だったり、
「存在」を認識する事についての恐怖感だったり、
「死」を恐れない(彼は輪廻説を信じている)姿だったり、
物語の中ではとても不思議な子としているけれど、
でも、どこかやっぱり、共感する点が多いのも事実。
そうやって、サリンジャーの分身のような彼等に、
共感したり、もしくは疑問を持ったりしながら読み進めたら、
また、時間をおいて読み直したくなった。
何時読んでも、新たな部分が琴線に触れる。
何度読んでも、さらに読み直したくなる。
そういう作品なのだと、思う。
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69:『サリンジャー選集 (別巻1) ハプワース16、一九二四』
- 2007-07-07 (Sat)
- J.D.サリンジャー
![]() | サリンジャー選集 (別巻1) ハプワース16、一九二四 (1978/01) J.D.サリンジャー、原田 敬一 他 商品詳細を見る |
サリンジャーの作品の中で、最新作。
1965年発表。その後現在まで、沈黙を守り続けているらしい。
グラス・サーガと呼ばれる作品群の一つで、「バナナフィッシュにうってつけの日」の中で自殺した、グラス家長男のシーモアが7歳の時に書いた手紙が、ひたすら書かれている。
「バナナフィッシュ」を含む「ナイン・ストーリーズ」はもちろん、「フラニー」、「ゾーイー」、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」、「シーモア -序章-」全て読まないと、「ハプワース16」は読めないと思う。
「ハプワース16」は、シーモアが7歳の時に両親に宛てて書いた手紙を、シーモアが自殺して17年後に、次男のバディ・グラスが書いた、という内容となっている。既に発表されている作品の中でも、長男シーモアは神童のように描かれていて、この作品でもやはり、その神童っぷりが際立つ。
手紙の所々で感情的になって喚いたり、急にめそめそしたりするあたりは、7歳の男の子という印象を受けなくも無いが、それ以外の言葉は、どう考えても7歳には見えない。
後に神童と呼ばれる他のグラス家の兄弟も、小さい頃から大人のような発言をしていたし、神童と呼ばれる子供は、そういうものなのかも知れない。
シーモアはこの手紙を書いた7歳の頃に、「ぼく個人は少なくとも手入れの行き届いた電信柱くらい、つまり三十年も生きることになるだろう。」と予言している。
「バナナフィッシュ」の書かれた後にこれを書いているのだから、「予言」というのもおかしいけれど。
その予言では、「ぼくらは自分たちに与えられた機会と義務を全うした暁には、これまでになかったほどの安らかさと気分で、気晴らしにこの世を去るのだ」とも言っている。
こういった内容から、この本は、シーモアの死の真相を探るために書かれた作品なのではないかと思う。
また、この本に限らず、「バナナフィッシュにうってつけの日」以降に書かれた、グラス・サーガと呼ばれる作品は全て、シーモアの死の真相に迫った作品ではないかと思うのだ。
サリンジャーにとって、シーモアは特別な存在だったのではないか。
そのシーモアを、「バナナフィッシュにうってつけの日」で死なせてしまった。「バナナフィッシュ」の中だけ見ると、シーモアが自殺するのは自然な流れのように読めるけれど、後のグラス・サーガも含めて読むと、そうとも言い難い。
サリンジャーは後に、シーモアを死なせた事を後悔したのではないか。
それで、シーモアが死に至るまでを探り、その理由を知るため、後のグラス・サーガを書いていったのではないかと思う。
作家が、自分の書いた登場人物の言動を追いかけるようになる、というのはよく聞く話なので、そう思った。
シーモアの兄弟であるバディやゾーイー、フラニーに、シーモアの死へ迫ってもらい、それをサリンジャーが記録したのではないか。
サリンジャー自身による解説がないため、これはわたしの勝手な解釈だという事をご了承いただきたい。
サリンジャーの作品は、野崎孝氏の訳しか読んだ事がなかったため、この本は少し読みづらく感じた。英文を直訳したような雰囲気も感じたが、もしかするとその方が、サリンジャーの文体に近いのかも知れない。
この作品が好きか嫌いかで言うと、好きだ。
しかし、あまりお勧めはしない。
サリンジャーが大好きで、バディやシーモアの言うユーモアをユーモアとして捉えられる人にお勧めする。
ちなみにわたしは、バディやシーモアの言うユーモアを全てユーモアとして捉える事ができなかった。レベルが高いのだ。次元が違うというか。
もう一度、「ナイン・ストーリーズ」から読み直そうと思う。
最後に、気に入った表現、シーモアの死の原因に引っ掛かるような表現を引用させていただく。
「ぼくの生涯で心が躍るような事柄はたくさんあるけど、そのひとつは、枯れつつある美しい小川のほとりで、若く目のさめるような娘あるいは婦人が、ほんの十五分ほどさりげない会話をしただけで、まったく本能的にこの若い子(=弟、当時5歳のバディ・・・筆者註)の価値を認めてくれることだ。」
「しかしベッシー、あなたはわれわれの愛する親であるという困難な立場にあるわけだけど、いくつかの事柄を、絶対に尻ごみしないで真っ正面から見つめるようにしてほしいんだ。」
「ぼくらがこの人生を終えるまでは、ぼくらの素顔がほんの少しでも地平線上に現れるのを見ただけで、ぼくらにたいして激しく燃えたぎる敵意を示す連中が数限りなく現れるだろう」
「あなたたちの子供は、必ずしも自分が背負わなくてもいい痛みを経験するという、いささか割に合わない能力があるんだよ。」
「自分のこれまでの人生を考えて、自分が七五パーセントから八〇パーセントは実にくだらない若者だと知るのは悲しいことだし、しんどいことだ」
「ぼくのようなあやふやな年の子供とか、あやふやな経験しかない子供というのはすぐに、大袈裟な悪趣味を持ったり、人に嫌われる自己顕示をやってしまうものなんだ。」
「この手紙がこれから先、少々ぶっきらぼうで人間味に欠けるように思えたら、勘弁してほしい。この手紙の後半では、言葉のひとつひとつ、言葉遣いの簡潔さを心がけるつもりなんだ。これはぼくの文章表現の最大の弱点だから。」(サリンジャーの自己評価をシーモアに言わせているのではないか?・・・筆者)
「以下の短いメッセージは双子の子供たちとブー・ブーに贈る。でも、ブー・ブーには父さん母さんには絶対手伝ってもらわないで、自分で読むように優しく頼んでね。だって、彼女にはちゃんとやれるんだもの!あの素晴らしい黒い瞳の女の子はやればできるんだ!」
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43:『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』
- 2006-09-09 (Sat)
- J.D.サリンジャー
![]() | 大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 J.D. サリンジャー (1980/08) 新潮社 この商品の詳細を見る |
先日、助けを求めるほど苦しんだ本を、読み終えた。
これ、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』と、『シーモア -序章-』の2つの物語を合わせたものなのだけど、前者は野崎孝氏による訳、後者は井上謙治氏による訳。わたしが『言葉が染み入らない』と苦しんだのは、後者。苦しんだのは訳者との相性が悪いからだったのね(ほかの野崎氏の訳は、非常に読みやすいものばかりだもの)。…言い訳しちゃった。ごめんなさい。
さて、これはサリンジャーの『グラース・サーガ』と呼ばれる、グラース家を対象にした連作物語の一部となっており、『ナインストーリーズ』、『フラニーとゾーイー』を先に読んでおくと馴染みやすい。
内容は、『ナインストーリーズ』に収められた『バナナフィッシュにうってつけの日』にて自殺した、シーモア・グラースの、結婚式の経緯と、シーモア・グラース自身についてを、シーモアのすぐ下の弟バディからの視点で描かれたもの。
子供のような透明な心のシーモアと、彼に大きな影響を受けた6人の兄弟は、簡単に言えば変わっていて、社会に馴染めないでいる。でも何故か、読者にとって理解できる感情や行動が多く、特にそれらが大人になる前に経験するものに近いため、読んでいるとわくわくして、叫び走り出したくなるような快感があるのだと思う。
今まで読んだサリンジャーの作品の中で、一番読みづらかった。だから、もう一度読むことにする。
さらに、その後で、もう一度『ナインストーリーズ』と、『フラニーとゾーイー』を読んだら、すごく楽しそうだわ。
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