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200611

54:『田園交響楽』

田園交響楽 田園交響楽
神西 清、ジッド 他 (1952/07)
新潮社

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盲目で身よりの無い少女ジェルトリュードを引き取り、一心に教育する牧師と、その家族の物語。開眼手術によって開かれた彼女の目は、何を見たのか。そして何を感じたのか。「盲人もし盲人を導かば」の悲劇的結末。「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいるのだよ。」というのがテーマ。

盲目の彼女が見ていた世界と、その世界に光を導いた牧師の像。開眼した彼女が見た世界と、目にした牧師の像。現実を見た後に感じた失望や懺悔が、悲劇を招いた。見せたくない世界を必死に隠した牧師は、何を恐れていたのだろう。それは、偶像崇拝を否定するキリスト教に繋がるように思う。神を崇拝し、偶像崇拝を否定するのはきっと、そのイメージの差に失望するからなのではないだろうか。牧師はそれを恐れていたのではなかろうか。

牧師は心が盲目だった。自分のジェルトリュードに対する恋心に気づかず、それが家族を傷つけ、行く行くは愛するジェルトリュードまでも傷つけた。まさに、「盲人もし盲人を導かば」である。

牧師の妻は、牧師のジェルトリュードに対する気持ちに早々に気づき、嫉妬し、嫌味を言う。彼はそんな妻を可愛そうな人だと思い、昔はあんなに可愛かったのにと悲しむ。しかし妻の気持ちを本当に理解しようとはしない。そんな牧師の態度にさらに苛立つ妻。
この二人のやりとりは、読んでいて苦しくなった。どうして牧師は妻の気持ちを理解しようとしないのだろうと思った。また妻もなぜそんなに不器用にしか、自分の気持ちを表せないのだろうと。つい、自分の経験に重ね合わせてしまう。
思うに牧師も妻も、盲目だったのだろう。互いに、見えているものの全てを見ようとしなかった。見たい物だけを、見たいようにしか、感じていなかった。そこにすれ違いがあったからこそ、ああして理解しあえなかったのだと思う。

読み進めるうちに、「盲」というテーマの深さに捕らわれて行く。

ジェルトリュードは正に盲目であり、眼で捉えられる世界を知らない為、牧師から与えられた世界の中だけで生きている。その、彼女へ与える世界を選別する牧師は、精神的に「盲」で、彼女の純粋さを失いたくないばっかりに、現実の罪や罰を見せようとしない。二人だけの世界ならば、それで良いかも知れないが、現実は罪や罰があるからこそ、美しいものを美しいと感じる事ができるのだ。美しいものしか与えられなかったジェルトリュードは可愛そうだった。結果として眼が開き、自分の力で捕らえた世界に、自分の犯した罪を見つけ、深く傷ついてしまったのだ。罪や罰に対する免疫があれば、あそこまで傷つく事は無かっただろう。

「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいるのだよ。」
正にその通りで、人は誰もが盲目で、全てを知らずに生き、そして死ぬのだと思う。眼の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。だからといって、眼が見えない方が幸せなのかと言えば、そうでは無い。知らなくて良い事もあると言うが、そうとは言い切れない。目の前に差し出される事象は全て、必要であるから現れるのであって、顔を背けたくなるような事柄であってもそれは、自分にとって必要だから現れるのだ。それでも人は目の前の世界を全て見る事は出来ない。見えざる何かによって選別された物だけを、必死に追いかけ見続けるのだと思う。
ジェルトリュードは牧師により、「見なくて良いもの」を見ないように育てられた。しかしそれが、本当に「見なくて良いもの」だったのか。牧師にとって「見て欲しくないもの」であっても、それが彼女にとって不必要なものになるのかどうかは、解らないのだ。
盲目に彼女を愛した牧師の招いた悲劇の原因は、そこにあると思う。

そして、ありのままに世界を捉える事の難しさを感じる。人の主観の大きさと、それが導く障害を強く感じる。

最後に、わたしは「田園交響楽」と聞いて、ベートーヴェンの「交響曲第六番」を思いだした。緩やかな、優しい田園の風景が表現された美しい絵画のような交響曲。
小説の中で牧師が聞かせた曲は、きっとベートーヴェンの第六だったのだと思う。「あなたがたの見ている世界は、本当にあんなに美しいのですか?」「あの『小川のほとりの景色』のように」と、ジェルトリュードが尋ねる場面が出てくる。「小川のほとり」は、第二楽章を指し、キラキラ輝く小川のほとりで、鳥がさえずる景色を表現した楽曲となっている。落ち着いて聞くことができ、平和な気持ちになる曲だ。

ベートーヴェンは、耳が聞こえなりつつある頃、この交響曲を作った。耳が全く聞こえなくなる前に、美しい景色を楽譜にしておこうと思ったのだろうか。蓄音機のラッパのような部分を耳に当て、外の音を聞いていたというベートーヴェン。彼が残そうとした音は、目の見えないジェルトリュードの心にこの上なく美しい風景を残し、生きる喜びを与えてくれた。

耳が聞こえなくなってからも、音は彼の頭の中を走り続けた。
目が見えなくても、景色は彼女の頭の中に広がり続けた。
自分の捉えるこの世界はいったい、どこで見て、どこで聞いた世界なのだろうと、なんとも不安な、宙に浮いたような気持ちになってしまう。

**:『1973年のピンボール』 続き

先に載せた、『1973年のピンボール』を読んでの感想文(の、ようなもの)(http://haru222review.blog64.fc2.com/blog-entry-55.html)について、下記、追記です。よろしければお読みください。

私は『読書感想文』を書きたいと思っていました。
小学生の頃、皆の前で読んだような、教科書通りの感想文を。
しかし、感想を述べようというまえに、文字から感じ、そこから広がる、自分の中に生まれたもう一つの世界が私の脳の中を占めてしまいました。
というより、勝手な「解釈」と言った方が良いかも知れません。
そして指は勝手にそれらを入力していました。
結果、『これは、感想文じゃ、ないよね』という、『なんてこった文』が、出来てしまったのです。

感想、というのはそもそもどういったものなのか、忘れてしまいました。
もしかすると、もっと本から距離を置かないと出てこないのかも知れません。
ところが、「1973年のピンボール」を読んだとき私は、自分の肉体がここにあることを忘れ、脳内に広がるこの景色は、自身が既に経験してきたものではないかと勘違いしてしまうほど、その本に支配されてしまいました。
主人公の「僕」は確かに、傍から見れば少し狂った生活を送っている。
しかし、その中で彼が感じる感情といったものは、誰もが経験する「自由というものへの憧れと、失望」のではないかと思えるのです。

私は昔、自由になりたかった。
しかし、手に入れた自由は混沌とし、出口の見えないトンネルで、私はこのままここに閉じ込められてしまうのだろうかと、日々不安を抱きかかえていました。
自由、青春。
そういった瑞々しく、甘美な言葉達は、私の心を掴んで離さず、早くその世界へ行きたいと思わずにはいられませんでした。
大人って何だろう。大人にはなりたくない。私って、何だろう。
答えの見つからない疑問を、日々頭の中に巡らせ、悩みたくて悩む日々。
今でもぐるぐると自分の尻尾を追うように、悩みを追いかけてはいますが、あの頃程ではない。
きっとそういった時を、人は「青春」と呼ぶのではないでしょうか。
そして、それらを濃縮して描きあげたものが、「1973年のピンボール」ではないかと思います。
それを読んだ人は、それぞれに胸を締め付けられ、自分の経験した「出口のないトンネル」を思い出し、しばしそこから抜け出せなくなる。
村上春樹の綴る文字達は、ぺらぺらめくる写真集のようで、文字を追いかけるとそこに様々な景色が浮かび上がります。
その後ろに見える、「僕」や「鼠」の動き。
合わさって脳に訴える「何かわからないが、胸がキュっとなる」感じ。
読む人に寄っては、この本から全く違う事を感じるかもしれない。
しかし私は、何度この本を読んでも、やはり、ここから感じたものは、自分の歩いてきたあの、真っ白な靄に包まれたトンネルの景色でした。

私が先日書いたあの、『なんだこれ文』は、感想文とは呼べないでしょう。
しかし、私は本を読んで、その主人公になって、もう一度物語の中を歩いてみたのです。
すると、文字には書いてなかった世界が見えてきた。
それは、私が「見たい」と思っていた景色かもしれません。
また、作者は全く想定していなかった景色かも知れません。
でも、いいんです。
私にはそれしか見えなかった。
読書って、そういった、その人それぞれに感じるものが違っていて良いものだと思うからです。

これにて、反省を含めた「読書感想文みたいなもの」は、おしまい。
読んでくださってありがとうございました。

**:『1973年のピンボール』

1973年のピンボール 1973年のピンボール
村上 春樹 (2004/11)
講談社

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僕には、鼠なんていう、もう一人の僕なんていないことを、確認するために。
僕は、盲なんかじゃないって、思い出すために。
それはまるで、ピクニックに行くように、僕の心を躍らせた。
しかし、そこへ向かう道中は暗く雨が泣いていた。

会いに行った彼女は、なんら変わってなかった。
しかし、僕らを包む空間は、変わりすぎていた。
時間という、残酷な風が、僕らの間を急激に吹き抜け、僕らが触れ合うことをやめた時間を責め立てた。
彼女に触れながら、泣いた。
『時間は流れる』という事を、思い出した。
『世界は回る』ということを思い出した。
もうすぐ、そこに、出口があるということに気づいた。
そして、それらを『彼女』は、ずっとずっと昔から知っていた事に、気づいた。

僕はもう、盲ではなかった。
盲に戻ったらまた彼女の声を聞けなくなる。
そのために『思い出』が欲しいと思った。
『思い出』に、時間や混沌は付け加えたくなかった。
だから、僕らは、彼女と新たなスコアを作ることを避けた。
そうして、僕に美しい過去をプレゼントしたんだ。
そうして、僕は彼女を美しいまま、あのヒンヤリとした冷凍庫に『埋葬』した。
静かな箱に並べられた『彼女』は、まるでこれからもう一度生まれようとしている胎児のようだった。
扉の向こうは、ひどく寒かった。

僕と鼠は、出口のないトンネルにいた。
僕は、出口の光を目視した。
僕は、一人でそれに向かって、まっすぐ歩こうとしていた。
今、僕から見放された鼠はどうしているだろう。
ふと思い出す。
分からない。
分からなくても、いいのかもしれない。
鼠はもう、死んだかも知れない。
鼠はもう、あの暗い海に帰ったかも知れない。

僕らは、昔、青春という、自由で混沌とした靄の中にいた。
僕らは皆、盲で、その中を千鳥足で歩いていた。
僕らは世界なんて知らなかった。
それは、知らなくても何の問題も無かった。
僕らの周りには薄い膜があって、それを通して触れる外界はとても遠いものに見えた。


今、僕は振り返ってみる。
傾斜の緩やかな山道を、僕は相変わらず登っている。
しかし、あの時のトンネルはもう、見えない。
いつあのトンネルを抜け出したのかさえ、思い出せない。
しかし、僕には『バックギア』という装置がなくて、だから僕は、あのトンネルに戻ることを許されない。
僕にはあのトンネルがあったことを忘れるという事が許されない。
それは時折、僕の心を優しく締め付ける。
きっと、今感じている時間という風が、そのトンネルの中の世界を美しい思い出にしてくれるだろう。
そうして、また一つ、僕は僕に、美しい過去をプレゼントしてあげるんだ。

僕はつまり、胎内にいたのだろう。


『1973年のピンボール』を読んで。
「僕」と「鼠」へ
「僕になってみた私」より
haru

53:『夜の樹』

夜の樹 夜の樹
トルーマン カポーティ (1994/03)
新潮社

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村上春樹が影響を受けたと聞いて読んだ本。

一言で言うと、「不安」を感じる。

この短編集に入っている物語は、二つに分類できる。
狂気、孤独、闇、自分が分裂しそうな不安、内向的な世界。
そしてもう一方は、幸福で暖かく、無垢な子どもや女性が登場する世界。
こんなにも真逆の世界が入っている短編集も、そう、無いのではないか。
全体的に見ると、不安を掻き立てる内容が多いため、なかなか一気に読み進められなかったが、最後に入っている「感謝祭のお客」という話がとても暖かく、希望に満ちているので、救われる。

不気味さを味わうなら、「ミリアム」「夜の樹」「夢を売る女」「無頭の鷹」。
暖かさを味わうなら、「銀の壜」「感謝祭のお客」。
他2作品の「誕生日の子どもたち」は、くすっと笑みのこぼれる内容なのだが、最後が、ぶつっと無理矢理切れてしまっているようで、読み終わった後もやもやしてしまう。
「ぼくにだって言いぶんがある」は、どこかユーモアがあるのだけど、どこか不気味さが残る。

「感謝祭のお客」には、とても素敵なせりふも多い。
いじめっ子を懲らしめてやろうと、主人公がいじめっ子の罪を感謝祭のテーブルで暴露した後の、ミス・スックのせりふ。
「これだけは、いっておきたいの、バディ。まちがったことをふたつ重ねても正しいことにはならないわ。あの子がカメオを取ったのは確かに悪いことね。でも、あの子がどうしてそんなことをしたのかは私たちにはわからない。たぶんあの子は、そのまま持っているつもりはなかったと思うわ。理由がどうであれ、あの子は、計算してやったんじゃないのよ。あなたがしたことのほうがずっと悪いのは、そこなの。あなたは、あの子に恥をかかせてやろうと計画したでしょ。わざとそうしたでしょ。ね、聞いて、バディ。世のなかには、許されない罪がひとつだけあるの─わざとひどいことをすること。他のことはみんな許される。でも、これだけはだめ。わかる、バディ?」
こんなことを言える大人は、そう、いない。

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