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200702

62:『痴人の愛』

痴人の愛 痴人の愛
谷崎 潤一郎 (1947/11)
新潮社

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ううーん。
注釈が、多い。無駄に多い。
『痴人の愛』だけではないけれど、新潮文庫の谷崎潤一郎作品は、やたらと注釈を付けたがる。377ページ読み進める間、1ページ平均5個くらいあったんじゃないかな。「その舞台背景を知る為に知っておいても良い」くらいの事でも、いちいち注釈をつけるので、そのたびに巻末へ目をやらねばならない。読みづらい・・・。

と、新潮文庫の文句を言っても仕様がないですね。


『痴人の愛』
そのまま。「痴人」が「偏愛」に溺れ、堕落していく話。

生真面目で、当時の公務員よりも高給を稼ぐサラリーマンの譲治が、カフェ(当時のカフェで働く女給は、今で言うホステスのようなものだったらしい)で見初めた美少女ナオミを、自分好みの女に育て上げようと思い、妻にする。ナオミは混血児のような美女で、手足が長く、目鼻立ちは凛々しく、譲治はその美しさに夢中になり、ナオミをさらに美しく着飾ろうと、贅沢の限りを尽くす。
譲治の思惑通り、女優と見まごう程美しく成長したナオミだけれども、その実は我儘放題、愛欲に溺れまるで娼婦のように振る舞う。その魅力に群がる男友達は絶えず、とっかえひっかえ連れ込むナオミに、ついに嫌気の差した譲治は、ナオミを家から追い出す。
しかし、既にその、成熟した妖艶な躰に魅了されていた譲治は、ナオミを追い出した事を悔やみ、精神的に追い詰められていく。
そこへ、何事もなかったかのように帰って来たナオミ。何があっても、二度とナオミを手放したく無いと思った譲治は、身も心もナオミの奴隷となる。

ナオミを、自分の好みの、ハイカラな女性に育て上げようと、思う。
けれど、実際に育て上げられたのは、譲治自身。
どんなに我儘で、どんなに意地汚く、どんなに男癖が悪くたって、その魅力には叶わない。譲治はナオミに、完全降伏していたのだ。
初めて彼女の魅力に気づいた時から、ずっと。

追い出された後、ひょっこり戻ってきたナオミは、以前にも増して妖艶になり、その魅力を顕わにする加減まで心得ていた。
譲治はその肌に触れたい、唇に触れたいと願うけれど、指一本触れる事すら許されない。触れたら最期、昔のように堕落してしまうのが目に見えているから。けれど触れたい!
そんな譲治の気持ちを弄ぶように、わざと接近したり、焦らしたりするナオミ。

「いやならあたし、誘惑するわよ。―譲治さんの決心を踏み躙って、滅茶苦茶にしてやるわよ」
「友達として清く附き合うのと、誘惑されて又ヒドイ目に遭わされるのと、どっちがよくって?―あたし今夜は譲治さんを誘惑するのよ」


全てを心得ているとしか思えない。譲治が「天性の淫婦」と思うのも納得。

まだ少女だった頃からナオミは、考えなくとも、男を思いのままにする術を知っていたのだろうか。
それとも、譲治がナオミを、そんな女に仕上げてしまったのだろうか。
多分、その両方なんだろうな。

恋愛って、多かれ少なかれ、こんな心の戦いが繰り広げられているのだろう。
相手を疑ったり、かと思うと無闇に信用してみようとしたり。
理想に育て上げようと思ったり、知らぬ間に掌で転がされていたり。
この物語は、そういった「普通の人間」の「よくある恋愛」の一つなのだと思う。
きっと、誰かが誰かを盲目に愛している時、傍で見ればその人は「痴人」に見えるんじゃないかしら。

話は派手だけれど、きっと、そういう事が言いたかったんじゃないかな。



描写は矢張り、美しかった。
性描写も露骨でなくて良い。

「よし、じゃあ馬でなく、人間扱いにして上げる、可哀そうだから。─」
そして私とナオミとは、シャボンだらけになりました。・・・・・・


ここに辿り着くまでの、譲治の焦らされ振りもあって、かなり、ここは・・・。

ナオミに着せる衣装の質感や、ナオミ自身の肌の美しさ、脚の美しさ(谷崎さんは脚フェチなのね)などは、流石。

61:『猫と庄造と二人のおんな』

猫と庄造と二人のおんな 猫と庄造と二人のおんな
谷崎 潤一郎 (1951/08)
新潮社

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またまた、谷崎潤一郎作品。
またまた、紅に金の梅が描かれた艶やかな装丁。

しかし、これは妖しくない!
怖くない!嫌らしくない!粘っこくない!
『春琴抄』や、『卍』、『刺青・秘密』を読んできて、それを谷崎潤一郎の世界と思っているから、この作品はやけに軽く感じる。読みやすく、楽しくて、二日で読み終えてしまった。合計すると3時間くらいだろうか。実際、128ページしか無いし、軽く読むのに丁度良い。小説が苦手と思う人にも勧められる作品だ。

物語は、女が女に宛てた、嫌味たっぷりの手紙から始まる。
また、どろどろした話が始まるのかしらと、読み進める。
しかし、それがどうも違うらしいと気づく。

「私あなたの家庭から唯一つだけ頂きたいものがあるのです。と云うたからとて、勿論貴女のあの人を返せと云うのではありません。実はもっともっと下らないもの、つまらないもの、・・・・・・・・・リリーちゃんがほしいのです。」

リリーちゃん。
猫である。
庄造が溺愛している、欧州種の猫である。

猫を愛し、猫に振り回される庄造。
庄造の愛を一心に受けるリリーに嫉妬する、二人のおんな。
題名が『猫と庄造と二人のおんな』であるのには、ちゃんと理由があるのだろう。
これが『庄造と猫と二人のおんな』でも、『二人のおんなと猫と庄造』であってもいけない。

腹が出て、どこか頼りなく、ぐずぐずしてばかりいるけれど愛嬌のある、マザコン男。それが、庄造。庄造は品子と結婚する前から、リリーを飼っていた。リリーが好きで好きで仕方なかった。時に品子はリリーに嫉妬した。しかし、庄造の気持ちが変わることは無く、そのまま数年二人は夫婦として過ごした。
しかし、品子は数年の結婚生活の後、姑に追い出されてしまう。姑と同じくらい勝ち気でしっかり者だったのが、いけなかったのだ。
後釜に入った福子は庄造の従妹で姑とも上手くやっている。しかし福子もまた、庄造がリリーばかり可愛がっているのが、段々気に入らなくなってくる。やがてリリーを追い出したいと思うようになる。
そこへ、冒頭の手紙が来る。
あの手紙は、追い出された品子が、後釜に入った福子へ宛てた手紙だった。夫婦であった頃こそ、品子はリリーを憎んだ事もあったが、独り身となった今は、逆にリリーが恋しくなったと言う。しかし、他にも魂胆がありそうだ・・・。

というお話。
猫の為に人格まで変わってしまう人間達の様子が、のびのび、コミカルに書かれている。

たぶん、谷崎潤一郎は猫が大好きなのだろう。
リリーのしぐさ、表情についての描写はとても詳細で、猫への深い愛情を感じる。どこか哀愁を帯びた目だとか、餌に飛びつく脚だとか、布団に潜り込んでくる時の匂いだとか、とにかくリリーは愛らしい。
愛猫家ならば、それら、猫の仕草がありありと浮かんで来て、ゆるんだ頬を戻す事は容易で無いだろう。
愛猫家でなくたって、きっと、猫の愛らしさに改めて気づく事ができると思う。

愛猫家ならば、ポール ギャリコの『猫語の教科書』や『ジェニィ』もお勧め。
どれも、思う存分、猫にメロメロになれる。

60:『卍』

卍
谷崎 潤一郎 (1951/12)
新潮社

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早く続きが読みたいと思ったのは、久しぶりだった。

『卍』
主人公柿内園子が、「先生」と呼ぶ(恐らく)作者に対して語る物語。最初から最後まで、上品な上方言葉で語られている。
冒頭はこんな感じ。
「先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまいませんですやろか?それはそれは委しい(くわしい)に申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか思たりしましたのんですが、・・・・・・」

まず、この言葉遣いがとても色っぽく、妖しいため、魅了される。
「つい、御親切に甘える気イになって、・・・」など、語尾を伸ばす話し方は、潤いがあり、艶があり、粘りがあり、語る女の魅力を引き立たせているように思う。東京の言葉では、このような艶っぽさは出ないだろう。上方言葉の妖しさでなければ、この物語の魅力は消えてしまうに違いない。

主人公園子は、理解ある優しい夫を持ちながら、美術学校で知り合った若く美しい娘光子と禁断の恋に落ちる。園子は彼女との永遠の愛を信じ、光子は園子を「姉ちゃん」と呼んで愛していた。しかしその頃、光子には綿貫と言う男がいた。
綿貫は異常な程の嫉妬を燃やし、園子を脅し、園子と光子の関係を守る変わりに、光子と綿貫の関係に水を差さない約束をさせる。
それを知った光子は、実は綿貫から逃れたいのだと言い、園子は光子と心中の芝居をする。そこへ駆けつけた園子の夫、柿内は光子と関係を持ち、柿内もまた、光子へ溺れていく。
だれが加害者でだれが被害者か、もつれあう女達と男達の織りなす愛欲の世界が妖しく描かれている。

例えば、芥川龍之介の「藪の中」では、七人がそれぞれの視点で事件を物語り、一体どれが真実なのか、真実は結局藪の中。という内容であるが、この「卍」を読むと、それと似た感覚を覚える。
語り手である園子は、ずっと周り(光子や綿貫)に振り回されているように語るけれど、果たしてそうか。光子との愛欲を優先し続ける行動は、時に夫を欺き、嘘に嘘を重ねる事で自分をも苦しめた。

つい、罠にはまってしまった。
しかし、その罠から抜けようとはしなかった。

そんな感じがする。
確信犯でありながら、それをそうと意識していないという恐ろしさ。
それは光子にも言えるし、綿貫にも言える。互いに自分の欲を満たす為、知らず知らずのうちに周りを巻き込み、自分まで苦しめてしまう。
面白いのは、夫、柿内が光子に溺れてしまうというもので、柿内は真面目で冷静沈着な男として描かれていたのだが、結局、妖艶な光子の毒牙に嵌ってしまうのだ。そしてあとは、転がる石のように落ちていく。

なぜ、「卍」というタイトルなのだろう。
「まんじ」という響きも、「卍」という文字も共に妖しい雰囲気がある。
そして、幾つもの欲や念が絡み合っているように見える。
光子を愛する園子。
光子を独占しようとする綿貫。
妻を愛する柿内。
一人でも多くの崇拝者を得たい光子。

互いに向け合う邪推、邪念、疑惑。
全てが絡み合い、「卍」という字になっているのだろうか。
「卍」という文字は、回転させても「卍」という文字になるけれど、同じように、園子も光子も綿貫も柿内も皆、お互いがお互いを愛し、束縛し、憎み、疑い、実は誰もが同じであったという事か。

残念ながら、実際の理由は分からないが、そんな事を思った。

最期に、
音読したいと思った。
上方言葉には縁の無いわたしだが、頭には、過去を振り返り語り続ける、若く艶のある園子の声が、ずうっと流れていた。ずっと上方言葉を聞き続けたら(実際は、読んだだけだけど、語りは声となって聞こえてくるものだから)、なんだか自分も話せるような気がしてくる。きっと、イントネーションなんか、滅茶苦茶なのだろうけれど。

これは、本当に面白かった。



59:『春琴抄』

春琴抄春琴抄
(1951/01)
谷崎 潤一郎

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「春琴抄」読み終えた。

心理描写が殆ど無く、会話も少なく情景描写も少ない。ただ淡々と「春琴」とその丁稚である「佐助」の生涯が語られて行く。近頃、光の一粒までを丁寧に描くような小説ばかり読んでいたので、このような語り口はとても新鮮であった。また、句読点が異常に少ないため、読み辛さは尋常でなく(あくまで、わたしにとって、の話であるけれど)、言葉のリズムを楽しむ事が好きな者としてはなかなか苦労した。
しかし、それでも、ぐいぐい引き寄せられるその内容は、官能的で、情熱的であった。

盲目であり、良家の令嬢である「春琴」は、丁稚である「佐助」に手曳きをさせ、琴・三味線の師匠の元へ通っている。春琴はとても美しくまた、芸も達者であるが、非常に我儘で傲慢。奉公人や親までもお手上げの春琴に、佐助は健気に、献身的に仕える。それは春琴を愛しているからであり、後に神に例えるほど尊敬しているからであった。
春琴に近づきたくて、春琴の世界を知りたくて、佐助は三味線を密かに習いだし、やがて春琴と共に師匠の元へ通い、春琴が独立した後は春琴を師匠として習った。主人と奉公人は、師匠と弟子ともなり、やがて互いを必要とし合う関係となった。主従・師弟関係を崩すことを決して望まず、最期まで夫婦になる事は無かったが、二人は深い、「愛」を超えた絆で結ばれていたように思う。
ある時、相変わらずの傲慢さで敵の多かった春琴は、何者かにより顔に火傷を負わされ、その美貌を失ってしまう。自慢の美貌を失い、気落ちした春琴。美貌も高慢も無い春琴など、佐助は見たくなかった。いつまでも春琴を愛していたかったから、その美貌をいつまでも留めておきたかったから、佐助は目に針を刺し、自ら盲目となった。
盲目となった後も佐助は相変わらず献身的に春琴に仕え、身の回りの一切の世話をした。光を失った世界は、まるで極楽浄土で春琴と蓮の台に乗っているようだ、と言うほど、佐助は幸せであった。何故なら、失った視覚の代わりに、触覚・聴覚が冴え、春琴の肌のなめらかさ、声のみずみずしさ、三味線の妙音を、更に感じることができたからである。盲になって、本当に良かったと、佐助は言う。
余計な物を見ずに済むから。
春琴の美しさは今も尚、脳裏に焼きついているから。

これを、被虐的快楽の官能小説と、捕らえる人もいるけれど、わたしは違う。だからと言って、純粋な愛の物語とも思えない。
佐助の春琴へ向けた屈折した想いや、盲目であることにより親にまで気を遣われ、自らを保つために益々強くなっていった春琴の傲慢さが(わたしが推測するに、春琴は、光の世界を失った不安や、親や奉公人から腫れ物を触るように扱われる事による緊張や寂しさから、あのように行き過ぎた傲慢さを持つようになったのではないかと思う。)、互いに絡まることで、外からの干渉を遮断し、さらに佐助まで盲目になることで、その、二人の世界が完成する、『籠に閉じこもった佐助と春琴の物語』のように思うのだ。二人が互いにいなければ生きていけないような、互いが互いを欲し、同時に滅ぼしていくような、そんな物語。だけど、陳腐な自滅的恋愛物語とも違っていて。

物語で春琴は鳥を大切に飼っていた。鶯や雲雀など。その啼き声を聞いて楽しんでいた。
鶯は人の気配がすると啼かないため、凝った飾りを施した障子を籠に貼り、その中に入れて啼かせた。野生のままでは美しい声とは言えず、まだ啼かぬ雛のうちに、上手な啼き手の鶯の元へやり、その啼き声を習わせた。それはまるで、師匠の元へ通う春琴や佐助のようであった。そうして人工的に作られた美声を、春琴は殊に好んだ。
雲雀は外へ放って啼かせた。籠から天へ放ち、雲雀が雲まで一直線に飛ぶときに啼く声を下で楽しんだ。雲雀はまっすぐ飛び上がり、一直線に巣へ戻る習性があることから、そのように楽しんだそうで、春琴の雲雀もまた、天高い雲から、手元の籠へ戻ってくるのであった。
それら、鶯や雲雀が、佐助と春琴を暗喩しているように思う。
籠の中の鳥。そこでしか生きられぬ命。周りから見れば、気の毒であったとしても、籠の中で互いを深く理解しあった二人は、幸せだったのかもしれない。

春琴晩年の頃、いつものように雲雀を放ち、その美声を楽しんでいた。しかし雲雀はそのまま帰ってこなかった。
明治19年10月14日、春琴は亡くなり、その21年後、明治40年10月14日、春琴の命日に佐助は亡くなった。


天高く飛んだ雲雀の姿は見えなくとも、そこから美しい声が聞こえてくると知っている。障子の向こうで啼く鶯が、たとえ実態無き影であっても可愛らしい色をしていると知っている。
眼を閉じて尚脳裏にある映像や音は、いつまでも色あせること無く、それと共に生きて行くことができる。それは時に、極楽浄土の如き幸せなのだと、佐助から感じた。
本当に大切なものは、眼を閉じたって見えるんだと、教えてもらえたように思う。

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