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200703
64:『詩人の墓』
- 2007-03-21 (Wed)
- 谷川 俊太郎
![]() | 詩人の墓 谷川 俊太郎、太田 大八 他 (2006/12) 集英社 この商品の詳細を見る |
ものすごい本に出会ってしまった。
出会えて良かったのか、良くなかったのか、
実のところ、解らないけれど、
傑作。
今まで読んだ本の中で、
一番短くまとまった、
哀しく、美しく、恐ろしい物語。
読み終えた今、胸が詰まって息が苦しい。
こんなに哀しい話は、そう無いだろう。
男は詩を書いて暮らしていた
娘は男を愛していた
男も娘を愛していた
男は全てを詩に書いた
詩を書くことしか人とつながる手段が無かった
男の内面に潜む空虚さに気づき、娘は泣きながら叫んだ
(以下引用)********************************
「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って!」
男は黙ってうつむいた
「言うことは何もないのね
あなたって人はからっぽなのよ
なにもかもあなたを通りすぎて行くだけ」
「いまここだけにぼくは生きてる」男は言った
「昨日も明日もぼくにはないんだ
この世は豊かすぎるから美しすぎるから
何もないところをぼくは夢見る」
********************************(引用終わり)
娘は「あなたって人はからっぽなのよ」と言ったけれど、
そうでは無いと、わたしは思う。
上手くは言えないけれど、
彼はからっぽになりたかったんじゃないかなと、思う。
全ての事象が詩的に見えて、
その実態を知らなくても、それについての詩が出てくる。
花の名を一つも知らなくても、
いくつでも花の詩が書けるように。
そうして言葉が泉のように湧き出る事が、
時々、哀しかったんじゃ、ないかしら。
全ての事が、言葉になってしまうから、
たった今感じた悲しみも、
この腕の中の、愛する人の囁きさえ、
次の瞬間には言葉になって、宙に消えていくから、
彼には何も残らないようで、
哀しかったんじゃないかしら。
虚しかったんじゃないかしら。
だったら始めから、全てを透すガラスのように、
無色透明な存在で、ありたかったんじゃ、ないかな。
詩的な生き方の出来ないわたしには、
そんな読み方しか出来なかったけれど。
読み終えた後、涙が流れている事に気づいた。
何かが胸を埋め尽くし、
それが、自分からあふれ出しそうになり、
苦しくて苦しくて、仕方なかった。
そして、得体の知れない不安に襲われる。
谷川俊太郎さんが、
このまま、どこかへ消えてしまいそうに思えてくる。
「詩」という神様(もしくは悪魔)に呑みこまれてしまうのではと、
不安でならない。
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63:『新編銀河鉄道の夜』
- 2007-03-19 (Mon)
- 宮沢 賢治
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*・*・*・*・*・*・*
感想に入る前に。
後から続く感想文を書いた後(メモ帳に書いているのです)、アマゾンで、この本の詳細ページを見ていた。
「この商品を買った人はこんな商品も買っています」
というオレンジの文字の下には、こんな本が並んでいた。
タイタンの妖女 カート・ヴォネガット・ジュニア
晩年 太宰 治
フラニーとゾーイー サリンジャー
注文の多い料理店 宮沢 賢治
新編宮沢賢治詩集 宮沢 賢治
思わず声を上げてしまった。
「タイタンの妖女」は、明日から読もうと、
もう、ブックカバーを付け、バッグへ入れたところだ。
「晩年」は、高校生の頃にかじってみて、
実はまだ、じっくり味わいきれていない作品。
だけど、何故か心の隅っこに引っ掛かっている。
「フラニーとゾーイー」は、愛する「グラース・サーガ」の中の一つ。
「注文の多い料理店」は、小学生の頃からの愛読書。
そうだ。この中で持っていないのは「新編宮沢賢治詩集」だけだ。
欲しい。
どうして持っていないのだろう。
気に入るって言う、自信がある。
ああ、欲しい。
*・*・*・*・*・*・*
『新編銀河鉄道の夜』
双子の星
よだかの星
カイロ団長
黄いろのトマト
ひのきとひなげし
シグナルとシグナレス
マリヴロンと少女
オツベルと象
猫の事務所
北守将軍と三人兄弟の医者
銀河鉄道の夜
セロ弾きのゴーシュ
飢餓陣営
ビジテリアン大祭
・・・以上14編からなる短編集。
わたしは、宮沢賢治作品を読む時には、
とくにその、言葉の響きとリズムを「観て」味わう。
賢治作品に登場する主人公達は、現実の世界では観たことのない者も少なくないため、彼等の性質や、言動にいちいち理解を求めては、折角の世界が崩れてしまうのだ。
それよりも、見上げた空から広がる、宮沢賢治の宇宙観を、
その、独特な言葉と共に、「ただ、感じる」方が、
よっぽど面白い。
以下、好きな表現の、ほんのひとつまみ。
「お日様がカツカツカツと厳かにお身体をゆすぶって、東から昇っておいでになった時、チュンセ童子は銀笛を下に置いてポウセ童子に申しました。」(「双子の星」より)
「夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。一疋の甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはそれを呑みこみましたが、その時何ぜだかせなかがぞっとしたように思いました。」(『よだかの星』より)
わたしはこうして、時々、宮沢賢治による自然への優しい眼差しを感じ、
改めて、吹き抜ける風だの、浮かぶ雲だの、照らす星だのを見つめる事が好きだ。
何度読んでも、彼の言葉は、
わたしに新しい視覚や嗅覚や触覚や聴覚(味覚もあるかも知れない)を与えてくれる。
それは、とても幸せな事なのだと思う。
宮沢賢治の作品は、その殆どに「生と死」が係わっている。
そして、それに対する賢治の考えは、ある程度一貫しているように思う。
その考え方が、『銀河鉄道の夜』では、このように書かれている。
「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
恥ずかしながら、わたしは、
みんなの幸いのために自分のからだを灼く事を拒むだろう。
しかしながら、
小学生の頃、この台詞に出会ってから今までずっと、
燃えるさそりの星の話を読むたびに、
ぼうっとした、ほろ酔いのような恍惚感を覚えるのだ。
もしかすると、その言葉への、
強い憧れが、そうさせているのかも知れない。
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