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200708

79:『坊っちゃん』

坊っちゃん坊っちゃん
(1950/01)
夏目 漱石

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いやあ。面白かった。
恥ずかしながら、夏目漱石の本を読んだのは初めて。
「こころ」は教科書に載っていたので少し触れた事になるけれど、
キチンと読んだのは初めてなのだ。
面白かった。
テンポが良く、読みやすく、愉快痛快。
あっという間に読めた。

主人公である「坊っちゃん」の、正直で純粋で、
曲がった事が大嫌いで、すぐにカッとなる性格は、
見ていて本当に愛おしかった。
どこか、「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン君に似た部分を感じた。
反俗精神が強く、へつらいながら世を渡る大人に対して、
あれやこれやと言い返そうとするのだけれど、
しかし、自分にも非があるやとか、ここは黙っていようだとか、
そういった正直さが邪魔をし、口をつぐんでしまう。
また、実際に反論しようとすると言葉に支えちゃったり。
結果として、周りの人間に甘く見られてしまい、さらに腹を立てる事になる。

子供の頃から、「駄目な奴だ」と言われ続けた坊っちゃんを、
「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と褒め続けたのが、下女である清。
坊っちゃんの事を認め続け、離れてもずっと想っていてくれる清の存在がとても暖かい。
離れてからその清の暖かさに気づき、それからずっと想い続ける坊っちゃんの姿は、確かにこの方は「真っ直ぐでよい御気性」なのだと思わせる。
そういった暖かさが、この物語全体に漂っていて、すごく居心地の良いお話にしてくれている。

印象に残っている部分を引用。

「清はおれの事を慾がなくって、真っ直ぐな気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。」

「考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ。」

「貴様等これ程自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか。出来ないから笑うんだろう。」




ホールデン君と坊っちゃんが、何で似ていると感じたのだろうと考えた。
ホールデン君も坊っちゃんも、世間知らずのお坊ちゃんで、
バカにされたくなくて、大人びた真似をしてみたり、
狡いヤツはコテンパンにやっつけたくなったりする。
けれど、実際は大した力も無くて、
ずる賢い知恵もなくて、
相手を巻く程の口も無く、
結局むかむかとした気持ちのまま過ごす日々。
ホールデン、坊っちゃん、共に共通しているのは、
自分を認めてくれる唯一の存在がいるという事。
ホールデンには、フィービー。
坊っちゃんには、清。
だから、羽目を外しすぎる事も無いし、自分を保っていられる。
ただ、ホールデンはフィービーに会いに行った後、また離れて行ってしまう事で、何とも悲しげな空気のまま結末を迎えるのに対し、
坊っちゃんは辞表を突きつけて仕事を辞めたにしても、清の元へ帰り、清が涙を流して迎えるという暖かな結末を迎えるという大きな違いがある。
その辺りが、読了後に残る爽快感の原因なのだろう。

なんだか、「坊っちゃん」の感想文なのか良く分からない終わり方になってしまったけれど・・・。
唯の勧善懲悪話で無い所が、この物語の支持され続ける所以なのだろうと思った。とにかく、暖かくて痛快なお話なのだ。

78:『螢・納屋を焼く・その他の短編』

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)
(1987/09)
村上 春樹

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以下、七つの短編から成る短編集。
 ・螢
 ・納屋を焼く
 ・踊る小人
 ・めくらやなぎと眠る女
 ・三つのドイツ幻想 
  1、冬の博物館としてのポルノグラフィー
  2、ヘルマン・ゲーリング要塞 1983
  3、ヘルWの空中庭園



「螢」

どうも読んだことがある、
どうもこの場所を知っている、
この「彼女」と呼ばれる女性は、
もしや「直子」という名前では・・・、
等と思っていたら、やはりそうであった。
「螢」が元で「ノルウェイの森」が書かれたそうだ。
途中までは、まったく一緒だ。
小気味良い静けさというか、
快感さえ覚える展開というか。
例えば、
僕と彼女と彼女の恋人との、明るく楽しい思い出を語ったすぐ後の行に、
「彼の葬式の三ヶ月ばかりあとで、」
と入る。
こういった快い展開はさすがだ。

ノルウェイの森と同じく、
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
という話。
本当に静かで、綺麗なお話。


「踊る小人」

ちょっと不気味なおとぎ話だった。
イメージとしては、「オズの魔法使い」に出てくる小人が踊っているような気がした。
夢の中に出てきた小人が、現実に係わってくるお話なのだけれど、
「現実」と設定されている世界で、主人公は、象を作っているのだ。
人間に比べてのんびりしていて、
放っておくと4〜5年に一頭しか子供を産まない象を水増しするために、
本物の象の一部を使い、残りは人工で作り、
どんどん象を生産する工場で働いているのだ。
読んでいるこちらは、小人が現れる世界が夢なのか、
象を作っている世界が夢なのか、分からなくなってしまう。
「もし僕がひとつの夢のために別の夢を利用しているのだとしたら、本当の僕はいったいどこにいるのだろう。(112ページ)」

最後は小人と同じように国家から追われる身となる主人公。
夢と現実が解け合ってしまったのか、
それとも最初から全て夢だったのか、
なんとも気味の悪いお伽噺だった。



「納屋を焼く」

小説家である主人公と、その女友達。
そして、その女友達が連れてきた、「最初の、きちんとした形の恋人」である紳士。
その、「まるでギャツビイ」(「グレート・ギャツビー」の事だろう)のような紳士が、「納屋を焼くんです」と独白する話。

一度読み終えた後に、喉の奥に残る何とも言えない不快感。
それを確かめようと、すぐに読み返した。
すると、胸に何かが支えている。
小さな、確実な恐怖。
怖いんだ。この話。
でも、何が怖いのか、はっきりと分からない。
でも、怖い。直感がそう言っている。

何度か読み返し、感じた。
「納屋を焼く」とは「女性を消す」事なのでは無いか。
消す方法は分からない。
殺すのかもしれない。
神隠しのように、消してしまうのかも知れない。
分からない。

「納屋を焼く」という事の本質には触れずに、
この「彼」は、大麻を吸うというのと同じような犯罪行為をしているのだと、はっきりと主人公だけに告白する。
つまり、「納屋を焼く」という事が「犯罪行為」であると自覚した上での行動。
また、「焼くのに適した」納屋を選んでおくという計画性。
そして、女友達と共に主人公に会いに来たのは、
「次に焼く納屋の下調べに来た」のだと言う事。
後日、久しぶりに彼に会う。
彼の車についた傷。
消えてしまった女友達。
消えた事に大して、「いつもの事だから」と関心を持たない主人公に対して、「一文なしで、一ヶ月半も、十二月に」消えたという事、「彼女には本当の友達はいないのだ」という事を強調して、何かを伝えようとする彼。

あ、やはり。これを書いているうちに確信に変わってきた。
彼は、彼女を「消した」んだ。
彼は、焼くのに適した納屋について、こう言っている。
「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がするんです。」
「まるでそもそもの最初からそんなもの存在もしなかったみたいね。誰も哀しみゃしません。」
この、「納屋」を「女」に代えると、なんだか通じるような気がする。
世の中にいっぱいいる女。
消えても誰も哀しみはしないような「納屋」を「焼く」。
そして、実際に消えた女友達について執拗に尋ねるのは、
主人公に、何かに気づいて欲しいというサインなのではないか。
「納屋を焼く」と独白したのも、サイン。
決して、自分の犯す行為を止めてくれというサインでは無く、
もっと違ったサインのような気がする。

ものすごく怖い。
これだけが正解では無いのだろうし、
そもそも正解など無いのだろうけれど、
それにしても怖い話だ。

ぼんやりとしたイメージを残し、
しかし、そこからはっきりとした「恐怖」だけを残すという、
この話は凄いと思う。
つまらない言い方しかできなくて悲しいけれど、「凄い」と思う。




77:『プラネタリウムのふたご』

プラネタリウムのふたご (講談社文庫) プラネタリウムのふたご (講談社文庫)
いしい しんじ (2006/10/14)
講談社

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プラネタリウムで拾われたふたご。
一人は育った山間の村を出て、世界一の手品師になった。
もう一人は村に残り、プラネタリウムの語り部になった。

人の目を誤魔化し、夢を見させる手品と、
偽物の夜空を見せるプラネタリウム。
これは、「だます」事と「だまされる」事がテーマの温かなお話。


このお話が想像させてくれる素敵な映像は、
すぐに映画に出来るような、そんな簡単な映像じゃない。
宙を舞う手品師、客席に降る無数のバラ、
プラネタリウムの天井へ昇るシャボン玉、
想像するだけでワクワクするような、
けれど実現するのは不可能な、
そんな場面が沢山出てくる。
これこそが、小説の醍醐味なんだね。
小説も、プラネタリウムや手品と一緒。
文字で無ければ表現出来ない世界の中で、
偽物の人を動かして、夢を見させてくれる。


519ページにわたるこの物語には、
大切な人を想う気持ちから生まれる、様々な嘘が詰まっている。
どれも本当に暖かい嘘。
手品も、プラネタリウムも、山に伝わる怖い言い伝えも、
そこに相手に対する優しい気持ちがあるから、
騙される人も、騙す人も、それを「嘘」だと気づいても、「信じている」。


「だまされる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの世界になってしまう。」
という言葉があった。

この、「騙される才覚」とは、つまり、「相手を信じる才覚」だ。
「まやかし」も、騙されて信じれば、
お互いの間では「真実」になる。
そうやって人は、互いに騙し、騙され、
言い換えれば、互いに信じ合い、繋がっている。

この世は、怖い嘘ばかりじゃないよ。
嫌な仕打ちばかりじゃないよ。
怖がらないで信じてごらんって、言われたように感じた。

76:『ぶらんこ乗り』

ぶらんこ乗り ぶらんこ乗り
いしい しんじ (2004/07)
新潮社

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幼い頃から、天才と言われ、
4歳から、物語を書き、
6歳にして、声を失い、
代わりに、動物の言葉が分かるようになり、
動物から聞くちょっと怖いお話を残さず綴った弟。
ぶらんこを漕ぐ事が、とても得意で、
指を鳴らすのも、とても上手な、
ちょっと変わった「わたし」の弟。
弟が物語を書き続けたノートが出てきた。
読み返し、思い出す弟と過ごした時間。
今になって分かる、弟の気持ち。

「おはなし」って、こういうものを言うんだろうな。
例えば、トトロだったり、例えば、100万回生きた猫だったり。

声を失った弟から出てきた声が、
周りの人が吐いちゃうくらいひどいものだったり、
半分禿げた間抜けな犬がいて、
その禿げた横腹にみんなが伝言を書いたり、
そんなの、普通、あり得ないじゃない。

でも、何の違和感も感じないんだな。
不思議だな。
ぶらんこの揺れは、「あっち」と「こっち」を繋いでいるだとか、
動物がやってきて、
人間の知らない、本当の動物のお話を聞かせてくれるだとか、
ちっとも不思議じゃない。
なんだか当たり前のようにさえ、思えてくる。

本当かなとか、嘘かなとか、
どういう意味かなとか、そういう事を必要としない代わりに、
心に直接染み込んで来る物がある。
その染みこみ方は、お話の中に出てくるミカンみたいで、
乾いた喉にチクッて染みる感じ。

大人になった今読むから、それを「暖かい」と感じる事ができるけれど、
もし子供の頃読んでいたら、「怖い」と感じるんじゃないだろうか。
多分、大人になったわたしは完璧に「こっち」側にいるけれど、
子供の頃って、「あっち」側にも簡単に手が届いていたんだと思うんだ。
そうすると、弟の書く、ひらがなだらけの物語の内容を、当時の弟と同じくらい怖く感じたり、ぶらんこに乗った時の、どっか引っ張って行かれそうな恐怖感を思い出してしまうと思うんだ。


子供の頃、お母さんがよく、田舎の怖い話をしてくれた。
それはとっても怖くって、お母さんの言葉の後ろから、
本当にお化けが出てきそうで、いつも泣いていた事を覚えている。
母はわたしが泣くから話すのを止めようとするのだけれど、幼いわたしは母の手を握り、泣きべそかきながら、「それで?」って続きをねだっていたらしい。
あのとき、お母さんの言葉の向こうにお化けを見つける事無くお話を聞き続ける事ができたのは、ちゃんと、お母さんの手を握りながら聞いていたからなのかな。
弟の書いた「手を握ろう!」を読んで、
そんな事を思い出した。

75:『浴室』

浴室 (集英社文庫) 浴室 (集英社文庫)
ジャン‐フィリップ トゥーサン (1994/11)
集英社

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「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい。  ピタゴラス」
という言葉から始まっていて、
物語は、三つの章に分れ、
それぞれ
 「パリ」
 「直角三角形の斜辺」
 「パリ」
となっている。

全ての段落には番号が振ってあり、
(1)から始まり(50)で終わる(何ともキリが良い!)

とても淡々とした語り口で物語りは進む。
主人公の口調から、
彼の心情は、なかなか読めない。
心を顕わにしないよう、必死に力を入れているようにも感じる。


物語は、
ある日のある時点から突然始まり、
その時はすでに、主人公は浴室で午後を過ごすようになっている。
彼には美しい妻であるエドモンドソンがいる。
エドモンドソンは浴室から出ることを拒む彼の態度に、
心萎ませるものを感じていていたが、
それでも彼の生活を助けてくれていた。

彼は、ある日、思う。
「危険を冒さなきゃだめなんだ」

浴室を出て、
家をうろうろし、
台所で作業をしていた見知らぬポーランド人の男達とうまくいかず、
なんだか気にさわり、
誰にも何も言わず旅に出て、
旅先で、特に何もせず、
ある日、エドモンドソンの声が聞きたくなって居場所を電報で教え、
電話をもらい、
会いに来てもらい、
でも、ある時、どうしてもやりたかったテニスができず、
不機嫌になって、
気づけば、ダーツの的からエドモンドソンを連想するようになり、
彼女の額に矢を放ち傷を負わせ、
彼女はパリへ帰り、
主人公は風邪をこじらせ入院し、
お医者さんとテニスをすることになるが、結局土壇場でできなくなり、
へそを曲げて、そのままパリへ帰宅。
手紙が貯まっていたから、それを読みつつ浴槽へ湯をはる。
なにが原因か分からないが、午後を浴室ですごすようになった。
ある日、思う。
「危険を冒さなきゃだめなんだ」



ここで、冒頭のピタゴラスの定義を思い出した。
物語は、
三角形の一点からスタートし、
長い斜辺を通り、
また、始めの点へ戻って来た。

ただ、淡々と、心情を表わさずに書かれているのに、
なんだかユーモアがたっぷりで、
特にパスカルの「パンセ」について英語混じりで語る所などは、
笑わずにはいられないくらいだし、
何故、浴室で過ごすようになったのか、
最後まで明かされないし、
始めに出てくるエドモンドソンが妻だという事は、
なかなか教えてくれないし、
旅先がヴェネチアだということも、
なかなか明かされないし、
何故そこまで、ヴェネチアでテニスをすることにこだわるのか、
なかなか理解できないし、
結局、振り出しに戻るし、
可笑しいのだ。

主人公は、いかにも自己完結型の人間だ。
それがとてもユーモラスに書かれている。

けれど、どこか素直に笑えないでいる。
それは、自分自身がそれに近い人間だと分かっているからだ。

彼は人に心を開かない。
エドモンドソンも、お医者さんも、
あんなに素直に明るく接してくれるのに、
彼は直ぐに閉じこもろうとしてしまう。
そしてそれを続けると、突然その殻を破りたくなる。
しかし結局、その殻へ戻ってしまう。
一方、変わらず拘り続ける「不動性」。
運動の可能性の不在、すなわち「死」へのこだわり。
「動」を見つめ、同時に自分の中にある「動」を抑えようと力む。
しかし、いくら身動きしない状態を保ち続けようとしても、
それは不可能な事なのだ。
やけどするように熱いチョコレートの下で、
ヴァニラが少しずつ溶けていくことを抑えられないように。



三角形の辺の上を、ぐるぐる巡るお話。


時間が経つにつれ、素直に笑えなくなっている自分がいた。

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