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84:『きりぎりす』

きりぎりす (新潮文庫)きりぎりす (新潮文庫)
(1974/09)
太宰 治

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負けた。これは、いいことだ。そうでなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。
(黄金風景 48ページ)



全体的に、愉しい話が多い。
いやらしいほど自虐的な言動は、真面目な語り口調の力を借りて笑いを誘う。
「畜犬談」は何度読んでも可笑しい、傑作だと思う。
太宰治という人物を、これほど愛らしい方だと感じた事は無かった。

冒頭に載せた引用は、一冊を読んで一番心に残った文章である。
子どもの頃にいじめた女中が、今は立派な主婦となり落ちぶれた主人公の元へ現れる。
恥ずかしさから逃げる主人公が聞いたのは、「あのかたは、お小さいときからひとり変わって居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」と家族に自慢する彼女の声であった。
この一言が荒んでいた主人公の心に光を差し、過去の傷を癒す。
短編ばかり収められた本作品の中でも最も短い作品である。
主人公の心に引っ掛かっていた鬱々としたものが、光に溶けて消えるまでを、一息で読むことができる。
女中であった彼女の言葉や、その後の主人公の言葉は大変甘いものだけれど、こうして一気に書いてあるとその甘さも嫌味で無い。

他、「皮膚と心」などの女性による語りは、作者が男性であることを忘れてしまうほどであった。
太宰治の中を占める女性の割合の大きさを感じた。

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